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来し方行く末(こしかた ゆくすえ)は、団塊世代の男の生き方です。

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学習・成長1940-1960年代

(明治維新〜軍国主義台頭〜)世界大戦〜戦後復興〜高度経済成長


《目 次》

1.近代日本への道程

2.敗戦の復興から高度経済成長へ

3.小学・中学・高校時代

4.社会に出て気づいたこと

5.会社が社会が、生き方を教えてくれた


1.近代日本への道程
 1603年、徳川家康が征夷大将軍となり開いた江戸幕府も264年を経て崩壊。1868年、明治維新で王政復古の大号令を発した新政府は、やがて内閣制度を誕生させ政治の中央集権化を図り、軍事力も一元化した。
明治維新によって欧米文化が取り入れられ、文明開化は時代の代名詞となった。

《日清戦争》 1894年-95年
 一方、東南アジアを植民地化してきた欧米列強に加え、勢力を伸ばしてきたロシアに対抗するため、日本は当初、中国・朝鮮と同盟を結んでアジアの団結を図ることで欧米列強から領土を守ることを考えた。

 しかし、歴史的に日本を小国と侮ってきた中国と朝鮮はこれを無視。明治新政府はアジアが団結しての植民地化阻止が不可能と知ったが、政府内の「征韓論」を抑えきれなくなり、朝鮮に武力で圧力をかけ出した。これに対し、朝鮮を数百年ものあいだ属国としていた清国が乗り出し、日本との間に日清戦争が勃発した。

 日清戦争(1894-95年)は日本が「脱亜入欧」を懸けた一戦となり、結果的に日本が勝利、遼東半島や台湾などを得て朝鮮を清国から独立させ、日本の影響下に置くことになった。日清戦争の勝利は、それまで清国がアジア最強国と思っていた欧米列強に衝撃を与えた。

《日露戦争》 1904年-05年
 当時、インドで製造したアヘンを清国に輸出して巨利を得ていたイギリスと、東アジアに北方から圧力をかけていたロシア、フィリピンやグアム、ハワイなど太平洋の島々を植民地化してきたアメリカの3国は、 東南アジアと清国、朝鮮半島、日本列島を主戦場に覇権争いをしていた。
 清国に勝ったことでアジアの大国となった日本ではあるが、 世界で植民地争いを繰り返している白人国からすれば、自分たちと同等の大国ではなく、植民地化の対象地域と考えられていた。

 ロシアはドイツ、フランスと組んで、日本が日清戦争で得た遼東半島の領有権を放棄するよう求めた。(三国干渉)この脅しに屈すると日露戦争の苦労が無駄になるが、日本はこれら三国相手に戦争するだけの国力が無く、やむなく清国に返還した。
  ロシアは清国に恩を着せ、遼東半島を清から租借。さらに清国領土の領有権を次々主張し朝鮮半島のすぐ北にロシア軍を配備するにいたった。
 かたや世界中に広げすぎた植民地経営に苦慮していたイギリスは、ロシア南下を押さえたいが直接ロシアと戦争する余力が無いため、1900年日英同盟を結んだ。
 新聞は対露強硬論を唱え反露感情が沸騰、日本はこの日英同盟を背景にアメリカからも支援を受け、1904年ロシアに宣戦布告。しかし、清国とは較べようもなく強大で近代戦に慣れたロシアに苦戦しながら、辛くもアメリカの仲裁もあって日本の勝利で終わった。

 しかし、108万人の兵力を投入、死傷者20万人、戦費20億円(当時の日本国の歳出総額は2億円)にもかかわらず、賠償金が得られなかったことから世論は納得せず、暴動が起きた。

《閑話》
 日露戦争の勝利は、400年にわたって欧米諸国に一方的に虐げられてきたアフリカ大陸やアジアの有色人種の国々が、白色人種の国との戦争で初めて勝ち取った勝利でもあった。

《第一次世界大戦》



《第二次世界大戦》




2.敗戦の復興から高度経済成長へ






3.小学・中学・高校時代

Topic
 私の父親は1929年、22歳で千葉鉄道第一連隊 第一中隊を現役満期除隊となった。
その後、太平洋戦争に徴兵されて満州戦線へ。 母は、毎朝自宅から500メートルほど離れた愛宕神社に行って、無事に帰還できますようにとお参りしていたという。
 そのお陰か、顔面に大きな負傷をしたが、終戦で生還した。

 私は終戦の翌年1946年5月6日、歳が離れた6人兄弟の末っ子として生れたので、猫かわいがりされた。 
 人前ではモジモジして何も話せない内弁慶が、6歳になって片道2km弱ある小学校まで歩いて通うことになった。 

 最初は学校に行くのが嫌で、これまで通り家で遊んでいたかった。 母親はそんな私に、「小学生になったら、みんな学校に行くんだよ」と、一生懸命なだめていたように記憶する。
 
 小学校では、勉強もしないのに3年生くらい迄は良く出来る方だったし、運動会でも走るのが速くてリレーの選手だった。 しかし、、、4年生ごろから勉強も出来なくなって、走っても遅くなった。

 ずっと後になってその原因に気づいた。
 私は5月6日の遅生まれ。小学の低学年では、早生まれの子と比べ15%ほど早く成長していたのだ。 だから成長差が少なくなった4年生頃から、勉強でも運動でも、どんどん遅れていった、ということに。

記憶に残ること 
 勉強はしないけど、おとなしいから先生に誉められる私が気に入らなかったのだろう。 ある日、ガキ大将が私にからんでてきた。 最初はニヤニヤ笑ってやり過ごそうとしていたが、あまりのしつこさに腹が立った。
 ワァー! と叫んだか覚えてないが、その男に掴みかかって壁に押し当てていた。
 私は緊張でドキドキしたが、彼もまさか、おとなしい私が飛びかかってくるとは思わなかったのだろう。 何となく終わりになった。 そんな事件があってから、彼は私にからまなくなった。
 
私は学んだ =どんなに我慢しても、どうしても我慢しきれなくなったら、やり返せ! 相手になめられ続けないために=

 
 いま考えると恐ろしいことだが、小学のときも中学になっても、「予習・復習」という言葉は聞いたが、何したら良いかわからず、気にもならず、ただ遊んでばかりいた。

 中学3年生になると友達は高校に行くという。 何となく時間が過ぎて、いよいよ高校を選ぶ時期になった。 先生から、「君が行ける高校は、来年できる県南高校くらいだなぁ」といわれ、「じゃあ、そこにします」と、二つ返事で高校が決まった。

 栃木県の南部に新設する高校だから県南高と呼んでいたが、入学直前に栃木県立栃木工業高等学校と、立派な名称が決まった。 1962年4月開講。 その時はまだ校舎は完成しておらず、栃木高等学校の講堂を間借りして新学期がスタートした。 先輩がいない気楽さで学校は楽しかった。
 
 新設校なので私たち1年生だけ。 6クラスあったが、教室はコンクリートを打つときのパネルで、背丈位の高さまでに6つに仕切ったものだった。 広い講堂で天井も高いから、パネル間仕切りの上は素通しのため授業が始まると、あちこちから違うクラスの先生の声が聞こえた。
 
 高校では、仲間を誘って当時流行っていた山岳部を作り、顧問の先生にお願いして登山の基本から仕込んで貰った。


記憶に残ること  
 高校1年のとき、11月3日(文化の日)〜4日(日)にかけて一泊二日、山岳部として初めての山行があった。 日光連山の女峰山から小真名子、大真名子と縦走する計画だった。
 私は、何度か山に登ってるし練習もしてる。 体力にも自信があった。
登山前夜は何度もザックの荷物を詰め替えたりしながら、嬉しさで殆ど眠れなかった。 

 当日朝、張り切って家を出て、山岳部のメンバー10人くらいと顧問の先生で日光駅に向かった。 午前中は楽に登っていたが、昼過ぎから雨が降り出した。 簡単なビニールカッパしか持たなかった私は、襟首から雨が入って、睡眠不足もあり疲労と寒さでバテて、動けなくなってしまった。

 私の重いザックを先生が持ってくれたときは、羽が生えたように軽く感じた。 しかし、それもほんの僅かで、雨でドロドロになった登山道に倒れ込んでしまった。 何度も先生に起こされ、体を支えられて少しは歩けたが、またすぐ倒れ込んでしまった。 覚えているのはここまで。

 それまで、全身びしょ濡れで寒さに震えていたのに、ふぅっと暖かくなり、家で炬燵に入って暖かそうな母と父の姿を、部屋の上の方から見ている私がいた。

 気づいたとき、私は山小屋の中にいた。 知らないパーティの人がガソリンバーナーで沸かしたお湯を飲ませてくれていた。 私は寒さでガクガク震えていた。 バーナーの青い炎の上に足を出しても、熱く感じなかった。

 先生は気絶した私を担いで、自分と私のザックを両手に持って、やっと山小屋まで辿り着いたという。
 山道で倒れ込んで、寒さでガクガク震えていた私が、最後にふっと暖かくなって、両親のくつろいだ様子や顔までハッキリ見えた。 そのままいたら私は、この世の縁が尽きていたのだろう。 
 顧問の先生には心から感謝だし、本当に申し訳ないことをしてしまった。
 そんなことがあってから、人一倍練習してバテることが無くなり、苦手だったマラソンでも、気づけばトップになっていた。 

 私は学んだ =「人は亡くなる直前、苦しさから解放され楽になり、気持ち良くなる」 という医者の言葉は本当だと。=

 【気象庁のデータ】 https://www.jma.go.jp/jma/index.html
 1962年11月3日当日。奥日光の気象データによれば、午後2時から雨が降りだして、3時には降水量5.1mm、気温7.1℃、北東の風3m。夜中まで降り続けた。
 奥日光観測所より女峰山は1200メートル程高く、風も強いから、私が倒れて気を失ったあたりの気温は、氷点下だったろう。




4.社会に出て気づいたこと

 Topic
 高校3年も夏休みを過ぎると、工業高校なので就職する友達が大半で、数人は専門学校に行くという。 私は何をしたいのか特別考えるでも無く、時折、街で補導の先生に見つかっては職員室で怒られたりしながら、楽しい高校生活を送っていた。
 みんな卒業後の進路が決まって、いよいよ私一人が残った。 先生も心配して、「長谷部はどうするんだ?」と聞かれたが、先生達に反発していた私は、「大丈夫だよ!」

 でも、決して大丈夫な訳じゃない。 当時の職安(ハローワーク)に行って何か仕事がないか調べだした。 職安の担当者に話したら、「高校生は学校から紹介するので、ここに来てもダメだ」という。 先生に大見得を切ったこともあり、何とも困った。

 見かねた兄貴が、友達に頼み込んで高岳製作所に入れてくれた。 日本経済は1955年から1973年まで、神武景気〜岩戸景気〜いざなぎ景気と、世界に例のない高度成長期でもあり、会社は猫の手でも欲しかったのだろう。

 東海道新幹線が開業し、東京オリンピックが開催された1964年4月に、高岳製作所小山工場で入社式があった。
 家から自転車で15分程の高岳に初出勤すると、栃木工業高校の同級生が何人もいた。 「あれ、長谷部どうしたんだ?」とか聞かれた。

 彼らが不思議がるのはもっともで、彼らと一緒に入社試験を受けてない。高岳がどんな会社なのかも知らず、入社式の少し前に行って、会社の人から兄貴の話しを聞かされた程度で、即採用だったから。
 高岳で配属されたのは、検査課。 他の部署に比べたら仕事が楽な部署だった。
 学校でも家でも、「大丈夫だよ!」とか、肩肘張って偉そうにしてはいたけど、日本の経済環境も知らず、自分一人じゃ就職一つ出来ない、何とも情けない、カッコ悪い男だった。
 
 当時は、多くの会社で組合活動が活発だった。 高岳でも、管理職以外の先輩は全員組合員だった。 待遇改善の賃上げストライキとかあって、入社した時、組合員は全員時間外労働拒否だった。
 しかし、会社は納入先との契約があり、徹夜で朝まで、数10万ボルトの電圧をかけてトランスの温度上昇試験をしなければならなかった。
 入社間もない
私たちだけが組合員ではないため、検査課に配属された栃工同級生数人と、徹夜で温度上昇試験の立ち会いをした。
 徹夜で試験と言っても、実に簡単な仕事だ。 決められた時間、1時間に1回程度トランスのあちこちに貼付けた温度計を見て、温度を記入するだけだった。

 これを何度か繰り返すうちに、単純作業に飽きてしまい、ふざけて夜中に酒を飲んでいたら守衛に見つかった。
 翌朝、守衛長に呼ばれ、こっぴどく怒られたが、「君たちは若いし、将来もあるから、今回だけ会社には内密にしておく」と言われ、ホッとした。

 こんな、何ともいい加減な新入社員だった。

 高岳の休憩時間は、みんなでお茶を飲みながら話しをしていた。中に一人、みんなと違う話をする先輩が、時折り顔を見せた。 数ヵ月経った頃、気になって、「あの人はどんな人なの?」と聞いたら、「彼は大学を出た人だ」と教えて貰った。
 その時初めて、「大学に行くと、あんな話の出来る人になるんだぁ」と感心して、「よし、俺も大学に行くぞ!」と決めた。 すぐに何冊か、大学の入試過去問集を買った。

 誠に単純な話しであり、実に単純な男でもあった。

 長くなるので割愛するが、そんなことで、翌年1946年の4月1日、東海大学の文学部に入学した。






5.会社が社会が生き方を教えてくれた

Topic 
















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来し方行く末
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長谷部 勲(はせべ いさお)
第二次世界大戦が終わった翌年、1946年栃木県生まれの団塊世代。
戦後の混乱期、農業兼国鉄マンの家庭に育ち高卒で就職したが1年で退社。 大学を出て就職、後に会社を興して社長職。2010年社長を辞して仏教徒(浄土真宗)になる。お陰さまの安穏な日暮し。